大判例

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最高裁判所第一小法廷 平成2年(行ツ)65号 判決 1991年1月17日

富山県上新川群大山町東福沢一七〇〇番地の一

福沢住宅団地一一号

上告人

中野好之

右訴訟代理人弁護士

河原崎弘

富山市丸の内一丁目五番一三号

被上告人

旧鎌倉税務署長事務継承者 富山税務署長 川岸健

右指定代理人

下田隆夫

右当事者間の東京高等裁判所昭和六三年(行コ)第七三号更正処分等取消請求事件について、同裁判所が平成二年一月三〇日に言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告申立があつた。よつて当裁判所は次のとおり判決する。

理由

上告代理人河原崎弘の上告理由一について

記録によつて認められる本件訴訟の経緯に照らすと、原審が所論の措置をとらなかつたことに違法はない。右違法のあることを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。論旨は、採用することができない。

同二について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する事実の認定を論難するものにすぎず、採用することができない。

よつて、行政訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 橋元四郎平 裁判官 大内恒夫 裁判官 四ツ谷巖 裁判官 大堀誠一)

(平成二年(行ツ)第六五号 上告人 中野好之)

上告代理人河原崎弘の上告理由

一 原審の訴訟手続きは、憲法第三二条に違反する。

上告人は原審において、平成一年六月八日付けで調査嘱託申請および文書提出命令申請、同年七月二〇日付で本人尋問および証人申請をし、その後もその採用などを求めているが、原審をこれらを一つも採用しない。第一審においても、同様な状態である。

一審において本人尋問をしていないのに、二審において本人尋問を採用しない審理は例がないであろう。

国民は憲法により、裁判を受ける権利を保証されているが、これらは、単に、形式的に裁判を受けるのではなく、実質的な審理をする裁判を受ける権利である。

原審は、実質的な審理をしないので、これでは、国民の裁判を受ける権利が認められていないこととなる。

したがつて、原審の審理は、国民に裁判を受ける権利を保障した憲法三二条に違反する。

二 理由不備

原審は、以来一年半におよぶ期間において何一つ事実につき審理せず、当初から被上告人(国税当局)の不法な結論を維持する弁疏だけで判決を行つたことは、判決謄本の付表に国の準備書面をそのまま引用して、「弁論の全趣旨を総合して」と言うからだけで、控訴審としての使命を最初から放棄した。原審は、実質的審理を放棄したのである。

これは、原審が、実質的な審理を放棄した結果、判決に理由を付していないと言える。

これは、判決に理由を付することを要求した民事訴訟法一九一条一項三号に違反し、その結果、絶対的上告理由である同法三九五条第一項六号に規定する理由不備に当たる。

今日、世間において深刻に憂慮されている行政訴訟や、刑事裁判における我が国の司法府の極端な行政庁や検察への追随は、本件に見られる異常な国税処理への盲目的な追随とその合理づけの試みと同様であり、これらは、極めて由々しい結果を我が国の文化や公共意識に引き起こすであろう。

司法府は、社会正義に照らし、行政官庁と、市民の間に立つて、公正に判定を下すレフリー・審判者でなければならない。日本商事会社の個々の政策を一見公正な立場を装いつつ美化する審議会やコミツシヨナー風情とは厳然と区別さるべき威厳を持たねばならない。

特に、高裁段階におけるこの傾向は、目を覆うばかりである。甲第四五号証(晩翆草堂の顛末」の一三五ページ以下に引用された別件(昭和四八年ネ二六七号)についての仙台高裁の判決文と併せて参照されたい。

法理も信念も全く欠如した驚くべき二つの判決が、ひたすら行政処理の無条件美化という一点で同質でありながら、結論は一八〇度違つている。この種の司法官の感覚と強弁には法匪と言う言葉さえも誇張ではない。

控訴審の裁判官は公判廷の席上、再三にわたり、税法は自分たちにも、専門家たちにも、極めて複雑難解なものであると述べている。そして裁判長は、更にご丁寧に、「税法上の優遇を受けようとすれば、この難解な法規に照らして入念な注意を払って、書式と法の条件を通暁せねばならなかつた。従つて、それを怠つた結果を自ら引受けよ。」と説論した。

しかし、本件行政訴訟は、仙台税務署長による仙台市発行の支払調書の改ざん、藤沢税務署長による納税者への虚偽の通報と強圧、更正処分に至る税務署内の異常な違法な処理手続、異議調査庁たる藤沢税務署長柿谷昭男の率先指揮に基づく納税者(上告人)の課税資料、とりわけ、実地調査書の前面的な書き換え、摩り替え、と言う常識を嘲笑するような事実の無数の積み重ねの結果として、司法の場へ移されたのである。

しかし、良く考えてみると、二審の裁判官は、すべての納税者が、税務署の中で書類を改ざんされ、摩り替えられ、担当の税務調査官が納税者に真赤な嘘をのべたり、担当外の見も知らぬ部局の者が処分を決済するのを予め阻止すべく細心な注意を払え、と説論している訳である。

「自分たちも税務行政官と同じ国家公務員だから、余り課税の異常さについて非難しないでほしい。」などと、率直に公言した一審(地裁)の判事の心境は、恐らく、今日の我が国の司法界の中で残念ながら相当に一般的であろうと危惧される。

しかし、社会常識を重んじ公共の役に立つことを祈念する文学や思想の愛好者たる上告人は、「税法は、自分らにさえ難解だから、行政庁に追随するのが最善の道だ」などと、呑気なことと言つていられない。

上告人の所有していた財産が間違いなく公共のために役立つことを実現するために、上告人は、あらゆる手段を取つて、この国の社会的な良心と先祖の名誉のために、国と地方自治体の文化的な掠奪の試みの阻止に努めているわけである。

今日、確かに、警察当局による異常な罪状捏造が摘発された事例は徐々に増大して国民による警察の恣意的な処理への一定の歯止めは掛けられるようになつたが税務署の密室の中での難解な税法上処理の異常さが具体的な細点に至るまでここまで綿密に突き止められた例は殆ど他になかつた。

当初は、単なる市役所の一吏員による怨恨のまじつた売主への軽い気持ちの手出し、税務署の担当吏員による自己の成績向上のための書類への操作改変が、納税者の注意で看破され、摘発された結果が、今日の我が国の行政府の内部ではむしろ常識さえなつている組織の面子をなりふり構わず守ろうとする足掻きとなつて、税務署長直接指揮の書類変造の事態に発展した。

従つて、この段階では、国は自分の正しさを納税者に説明することを断念して、一切の事実の究明の拒否と言う、唯一つ残された戦術へと転換して、裁判所に救いを求めた。

書類の変造や地方自治体との綿密な通謀と口裏合わせが明白に明らかになったので、被上告人は、この経緯に関するすべての書類提出や証人尋問を拒絶して、これらの究明は何ら結論と無関係だと主張することによつて、行政による刑法上の犯罪の実情が、法廷へ持ち出されるのを防止し、さらに、課税行政庁内で、積み重なれた処理の具体的な過程やその処分理由の開示ではなくして、挙証責任を、処分を下された納税者に要求してきた。

行政訴訟に移行した段階で、行政庁の側がその種の戦術変更を行つた理由は、先に触れたような司法による行政への寛大な追随の傾向や、同じ公務員として共通の環状に依拠できると信じたためである。

我が国の下級審の裁判官たちは、三権分立なる建前で一応は自己の独立した良心に基づき判決を下すことを身分保障されているものの如くであるが、行政事件、ことに普遍的な理念的な争点を包蔵する事案に関しては、自己の判決が直ちに今後の人事移動や、栄達・左遷に直結していることは、裁判官たちのもっとも基本的な意識を形作つている。

行政府が自らの面子を維持する最後の拠点とするのは、このような制度上の属性を有する我が国の下級審の法廷であり、あわよくば、裁判所の最高府もと、空頼みするわけである。

国は様々な言辞で、白を黒と言い含めて、土居晩翆の旧式地の地元自体への譲渡が最初から税法上の優遇措置に該当する要件を具備していないと鉄皮面に公言している。しかし、この論理が司法の最高府で承認されるならば、これは、今日、我が国とアメリカ合衆国の間で究めて深刻な争点になつている我が国の公共投資政策なるもの通念が、国際世界においては、極端な異様さを示す典型的事例であろう。

過去三〇年間、「個人の使用権よりも、文化顕彰の大義に基づく使用権が優先されるべきである。」との仙台高裁の判決を盾に、これを占有してきた自治体は、この土地の所有権を取得した途端に各種の詭弁を弄して、この史跡の公共的使途を軽視して地上げ屋もどきに、自由なる処分権を強調して、「厳密に、公共的の使途を信頼した遺族の売主は、国家と地方公共団体のかねての美々しいい触れ込みに騙されたのだから、事業自得だ」と言ったのである。この三百代言的な論証は、国と自治体が共謀して、公共と言う建前を、詐欺の手段として活用する政策を実行する以外の何ものでもない。

これは、我が国における社会的善意の根底を破壊する行為であり、国際社会で一人前の社会理念を振りかざすことに汲々としている我が国の政治、行政、地方団体にとつては、愚かしい自殺行為以外の何ものでもない。

高裁判決は、仙台市が、当初、仙台中税務署と連絡を取り合う中で、売主たる納税者に交付を約束していた税法所定の書類に換えて、意味のない「証明書」を交付した経緯および、仙台市吏員が中税務署の書類改ざんの罪を、一方的に、自ら引き受けた経緯を全く不問にした。

これは、「国が、仙台市を誘導し、自ら租税特別措置適用実質的要件の完全な具備を知悉しながら、故意に加害行為を行つた」と言う既に一〇〇パーセント挙証済の事実を裁判所が意図的に看過したことを示す。

高裁段階から、今日に至るまで、国税当局は、自己の面子を救い、自己の論拠の破壊を食い止めるために、現に、目下進行中の上告人と横浜地方裁判所間における仙台市長との訴訟にも、陰に陽に、法廷の傍聴や準備書面の作成等で、本件勃発当初と全く変わりない誘導を行つて、仙台市の犠牲において、自己の先行、逃げ切りを画策している。

別件(横浜地方裁判所昭和六三年ワ代一四九七号事件)の両当事者の準備書面および求釈明の応酬の記録は、本件の裏の事情を詳しく明らかにしている。

実は、昭和六〇年六月の段階における国税当局による仙台市を悪者にした嘘八百の通報は、その後四か月後になつて、ついに、仙台市も、自分が国の罪を着ることに我慢ができなくなり、「支払調書の改ざんは、税務署の言うように仙台市が行ったものではなくて、ほかならぬ税務署自ら意図的に行った」ことを自白した。

最高裁の審理の中で、この二つの訴訟は立体的に眺めるうちに、これまでの国の主張は同じように崩壊するであろう。

以上

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